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銅鐸の謎を探る

銅鐸とは?

銅鐸の謎を探る

1.銅鐸とは

銅鐸とは、弥生時代に青銅製の鋳物でつくられた、つり手=鈕(ちゅう)と振り子=舌(ぜつ)をそなえ、紋様を有するベルです。銅鐸の発見は『扶桑略記』(ふそうりゃくき)天智天皇7年(668)条に滋賀県大津市に崇福寺(すうふくじ)を建立する際、宝鐸(ほうたく)が発見されたとするものが最古の記録です。『続日本紀』(しょくにほんぎ)和銅6年(713)には、奈良県宇陀郡長岡で銅鐸発見の記載があり、すでに「銅鐸」という名が記されています。また、10世紀には「阿育王」(アショカおう)の宝鐸という説が提唱されるなど古くからの研究蓄積があります。聞きなれない難解な銅鐸の部分名称も先達から受け継いだ研究の賜物であり、その名称を受け継ぎながら研究が行われています。銅鐸が謎とされているのは、銅鐸が一般に当時(弥生時代)のムラや墓から出土することが極めて稀で、多くが小高い丘陵の斜面に、銅鐸だけで埋められているからです。

2.銅鐸のかたち

銅鐸は、つり手「鈕」(ちゅう)とバケツをひっくり返したような「身」(み)、つり手から身にかけて張り出した「鰭」(ひれ)から成り立っています。銅鐸は本来、内面に振り子「舌」を下げたベルです。銅鐸内面の末端付近には、断面形が台形や蒲鉾形(かまぼこがた)の突帯(とったい)がめぐっています。内面に舌を取り付け、つり手を揺することで舌がこの突帯部分に触れあい共鳴します。古い銅鐸には、青銅製や石製の舌を伴って出土したものがあり、内面上部に舌を下げるため「環」(かん)を取り付けた銅鐸(有環銅鐸)もあります。また、内面突帯(ないめんとったい)が舌との摩擦によって磨り減った銅鐸も認められます。鈕(ちゅう)は、銅鐸をつり下げる部分で、本来は断面形が菱形をした半環状のものでしたが、後に装飾が加わり兜形(かぶとがた)から小判形(こぱんがた)に変化します。古い銅鐸には鈕と結んだ紐とが摩擦した痕跡をとどめるものがあり、木の枝などに銅鐸を紐(ひも)でつり下げて使用していたと考えられます。身(み)は、扁平(へんぺい)な筒形を呈しています。身の上面と上半・末端の左右には各々両面に孔があります。この孔は銅鐸を鋳造する際に、二枚の外型と内型を固定するために生じるもので「型持孔」(かたもちあな)と呼んでいます。銅鐸が大形化すると身も裾(すそ)開きの円筒形のものへと変化します。鰭(ひれ)は、鈕から身の末端付近まで連なる板状の装飾部分で、銅鐸を鋳造する際、二枚の鋳型からはみ出した甲張(こうばり)が装飾化したものと考えられます。

3.銅鐸の分類

銅鐸の多くが集落から隔絶した丘陵の斜面から銅鐸のみで出土するため、銅鐸研究はまず銅鐸そのものを分類して新旧を決めなければなりません。古くは銅鐸の紋様によって分類する方法が試みられましたが、佐原真氏による鈕による分類が提唱されてから銅鐸研究は飛躍的に発展しました。鈕分類は、本来ゆり鳴らすベルとして半環状のつり手に注目し、実用品から装飾が加わり非実用的なものへ変化するさま(ルジメント)をとらえ、断面系が菱形の素環状のもの「菱環鈕式」(りょうかんちゅうしき)から、その外縁にも装飾がつく「外縁付鈕式」(がいえんつきちゅうしき)もの、菱環部の外縁と内縁に装飾をもつ「外縁付内縁付鈕=扁平鈕式」(へんぺいちゅうしき)もの、さらには紋様の輪郭を著しく太い線=突線(とっせん)で画する「突線鈕式」(とっせんちゅうしき)ものの4つに大別しました。また、外縁付鈕式と扁平鈕式を2つに、突線鈕式を5つに細分化されました。現在では、佐原分類をもとに菱環鈕式(2型式)、外縁付鈕式(2型式)、扁平鈕式(2型式)、突線鈕式(9型式)に細分され、さらに北部九州と中国地方、四国、瀬戸内、東海地域などで銅鐸の地域色も明らかにされています。佐原氏は、銅鐸と弥生土器の紋様についても比較研究を行いました。そして、外縁付鈕式の銅鐸流水紋(りゅうすいもん)が弥生時代中期初頭の土器流水紋を写し取ったもので、外縁付鈕式が弥生時代中期初頭にあたることを指摘しました。また銅鐸紋様はすべて弥生土器に共通する紋様であり、銅鐸が共同社会の祭器として用いられたと考えました。

4.銅鐸の紋様

銅鐸には何らかの紋様が鋳込まれています。銅鐸の祖形として有力なものに朝鮮小銅鐸(ちょうせんしょうどうたく)がありますが、朝鮮小銅鐸には紋様がなく、銅鐸はわが国で独自の紋様が鋳込まれ成立したものです。銅鐸紋様はすべて鋳型面に刻み込まれた凹線が、青銅を鋳込むことによって凸線となって浮かび上がり、紋様や絵となって表わされます。絵には線画によって表現されるものと幅広い線や面を鋳型に刻み、陰影様に浮き出す表現方法がみられますが、紋様はほぼ一様に線画で刻まれ、表現手法に違いがあります。身にみられる紋様は、横方向の区画帯を用いた「横帯紋」(おうたいもん)、縦横に区画帯をめぐらせた「袈裟襷紋」(けさだすきもん)、平行直線紋を屈曲反転させた「流水紋」(りゅうすいもん)の大きく3つに分類できます。また、身の区画内には「斜格子紋」(しゃこうしもん)を多用し、横帯には「綾杉紋」(あやすぎもん)や「斜格子紋」「連続渦巻紋」(れんぞくうずまきもん)を、縦横帯が交差する部分には稀に「木葉紋」(このはもん)や「重画紋」(じゅうかくもん)などを配置します。鈕の外縁から鰭にかけてはふつう「鋸歯紋」(きょしもん)をならべます。鈕外縁には「鋸歯紋」「渦巻紋」(うずまきもん)「重弧紋」(じゅうこもん)などを、断面が菱形の菱環部には多くが「綾杉紋」を施しています。鈕の内縁は無紋とするか「鋸歯紋」や「重弧紋」を配置します。身の下部は「下辺横帯」(かへんおうたい)と呼ぶ横帯で仕切り、ここには「鋸歯紋」「連続渦巻紋」などをならべ、裾(すそ)とよぶ下部には紋様を施しません。

5.銅鐸の絵

絵は、初期の銅鐸から認められますが、銅鐸全体からすると3割程に過ぎません。また、外縁付鈕式までの銅鐸に多く、扁平鈕式以降の大形銅鐸は絵が少なくて、画題も鳥とシカに限られています。絵として描かれる画題には、シカ、鳥、人物、スッポン、トンボ、カエル、イノシシ、トカゲ、魚、カマキリ、高床建物などがあり、稀にサル、舟、僻邪などがあります。作者が自由に描いたとすれば、様々な絵があって良いのですが、画題は限られシカと鳥が数多く描かれています。国宝銅鐸として有名な伝香川県出土銅鐸、神戸市桜ヶ丘4号・5号銅鐸、出土地不詳谷文晁旧蔵銅鐸の4つの銅鐸は、ほぼ似通った絵と構成をもつことから、同じ作者によってつくられた一連の作だと考えられます。この銅鐸よりも更に古い時期につくられた福井県井向(いのむかい)銅鐸もよく似た画題が描かれています。このことから銅鐸の絵には弱肉強食や農耕賛歌といった一連の物語がうたわれているとする解釈が有力です。人物は、弓矢をもつ狩人のほかに、盾と戈をもつ武人、脱穀(だっこく)をする人、ケンカの仲裁をする人、イチ字型工具をもつ人(魚とり)などがいます。先の一連の銅鐸では女性を三角頭、男性を丸頭で表現しています。鳥は祖先の霊(祖霊)や穀物の霊(穀霊)を招く神聖な動物だったと考えられます。弥生時代のムラからは鳥形の木製品が出土することがあり、朝鮮半島では村の出入口にソッテという鳥竿(ちょうかん=鳥形木製品を取り付けた竿)を立て、祖霊を祀っています。シカは単独で描くほか、列で描かれるもの、背中に矢を負ったシカや大きな角をもつシカと狩人が一対で表現されたものなどがあります。鹿は最も利用価値のある狩の対象物として、また弥生人にとって豊穣を表す象徴だと考えられていたのかもしれません。絵が描かれる部分は、銅鐸の鈕、身の横帯や区画内、裾などに多く、特に鈕部分は紋様間の狭い部分に絵をならべるものがあり、身の上面にまで絵を描いた銅鐸もあります。また、稀に天地を逆さにして描かれた絵もあります。裾に紋様を施すことは稀ですが絵は裾にも描きます。反面、鰭は紋様でうめ、絵を描くことはほとんどありません。

6.銅鐸の鋳造

銅鐸は銅と錫(すず)の合金「青銅」で造られ、これに少量の鉛(なまり)が含まれています。銅は融点が1084度と高く、溶解するためには1100度以上の高温を要します。そのため、融点の低い錫(231.8度)、鉛(327.4度)を混ぜることで、より容易に鋳造を行ったと考えられます。成分比率は銅が全体の8〜9割を占め、錫は10%あまり、鉛はごくわずかで特に比重が高い鉛は少量が混入されたとみられます。これらの原料はどこから入手したのでしょうか。原料のうち鉛から原産地を推定する方法が研究されています。鉛は比重の異なる4つの同位体からなり、これらの同位体が示す構成比率は産出地ごとに異なっており、同位体比から原産地を推定することが可能です。鉛同位体比によると弥生時代中期の銅鐸や銅矛は朝鮮半島産の鉛を用い、弥生時代後期の銅鐸や銅矛は中国華北産の鉛が用いられたようです。そして日本産の鉛はまったく認められず、国内では鉛が生産されていなかったと考えられます。銅鐸はどこで、どのようにしてつくられたのでしょう。遺跡から発見された銅鐸鋳型をみると北部九州からも出土しているものの、その中心は圧倒的に大和、摂津を中心とする近畿地方です。このことから銅鐸とその祭祀は、近畿地方で考案され、周辺地域へ波及していたことわかります。 鋳造方法は、二つの外型と中空の身を造り出すため内型(中型なかご)を用います。二枚の外型をあわせ、内部に土製の内型をおさめて、銅鐸の厚みとなる隙間を厳密に保ち、銅鐸の底面を上部として溶解した湯(青銅原料)を注ぎこみます。出土した鋳型などから扁平鈕式古段階までの銅鐸は、外型に石の鋳型を使用し、扁平鈕式新段階以降は土の鋳型が用いられます。石の鋳型は鋳型をあらかじめ十分に温めなければ、青銅が鋳型全体に行き届かず、鋳損じ(鋳造欠陥)が生じてしまいますが、うまくいくと内型のみを取り替えて同じ外型から続けていくつもの銅鐸を鋳造することができます。現に同じ鋳型から鋳造された兄弟銅鐸(同笵銅鐸どうはんどうたく)が多数確認されており、それぞれ遠方から出土するなど、銅鐸を介して地域間の交流を解明する手がかりにもなっています。 北部九州でも銅鐸や青銅製の武器形祭器が鋳造されていますが、北部九州では基本的に終始石の鋳型を用いています。近畿地方が石の鋳型から土の鋳型に移行した背景には、近畿地方が北部九州を介することなく、中国や朝鮮半島と直接交流を持つに至ったことがと推定されます。鉛同位体比による原産地推定も弥生時代後期には中国華北産鉛が使用され、これらによって巨大な銅鐸鋳造が可能となったのでしょう。土の鋳型は奈良県田原本町の唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡を中心に出土しています。唐古・鍵遺跡遺跡では銅鐸のほかに銅鏃や銅戈、銅剣などの青銅器もつくられ、一大鋳造センターであったと考えられます。その一方で弥生時代後期になると畿内に限らず、近江や東海・北陸地方においても土の青銅器の鋳型や鋳造関係遺物が発見されており、青銅器鋳造が近畿地方の中枢部のみでなく、遠隔地の拠点集落などでも行われていたようです。

7.銅鐸の埋納

約500例発見されている銅鐸の大多数が偶然の発見によるものです。このため銅鐸がどのように埋納(まいのう)されていたかも定かではありませんでした。近年になってようやく発掘調査で発見される事例が増え、銅鐸の埋納方法も明らかとなってきました。調査を経て記録された銅鐸の多くは、銅鐸よりもわずかに大きな穴を掘り、そこに鰭を上下として銅鐸を横たえて埋納しています。この方法は最古段階の菱環鈕式銅鐸から新段階の突線鈕式銅鐸まで一貫しており、銅鐸埋納には一定の法則があったことがわかります。しかし、少数ながら天地を逆転して埋めたものなどもあります。銅鐸は単独で埋められるほかに、多数の銅鐸を一度に埋める場合、一定の範囲に分散して埋める場合があります。島根県の加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が、神戸市桜ヶ丘では銅鐸14個と銅戈7本がともに埋納され、野洲市大岩山からは、14個と9個と1個の銅鐸が近接する3つの地点からみつかっています。また、静岡県浜松市(旧引佐郡細江町)の都田川流域・浜名湖北岸の三方原台地ではこれまで14地点から16個もの銅鐸がみつかっています。多数が一度に埋納される際には、大小を「入れ子」としたり、鈕を向かいあわせとするなど小さく埋納しようとする意図がみられます。なぜ銅鐸を埋納したかについては、土中保管説、隠匿(いんとく)説、廃棄説などの諸説がありますが、複数出土した銅鐸をみると型式的に相前後する銅鐸で構成されており、それらは突線鈕1式までのものと、突線鈕2式以降のものに分離できることができます。このことから銅鐸埋納は、大きく弥生時代中期後半と後期後半の2回の埋納時期があったと考えられます。

8.銅鐸の祭祀と変貌

銅鐸は、銅鐸そのものがもつ意味もさることながら、銅鐸にかかわるまつりが存在していたと考えられます。弥生時代の最大関心事は、米づくりに代表される生産基盤の安定とムラの存続と維持発展にあったと考えられます。耕地の確保といった土木事業を展開するためには人々が心をひとつにする必要があり、ここに共同体の祭器として銅鐸のまつりが最もふさわしいと考えられるのです。ベルは古くから神々を招き、願いを聞き届けるために重要な役割を果たす儀器であり、シャーマン(司祭者)が銅鐸をもちいて豊穣と祖霊を崇め、ムラムラの発展を祈願する祭祀がとり行われたのでしょう。
三品彰英氏は佐原氏の地中保管説を受けて、銅鐸は地霊や穀霊の依代(よりしろ)であり、大地に納めておくことが大切なことであり、銅鐸を掘り出すことは地霊・穀霊を地上に迎えまつること(地的宗儀)で、まつりが終わると再び大地へ埋め戻すもので、やがて古墳時代を迎えると鏡に代表される天の神、日の神のまつり(天的宗儀)にかわり、銅鐸は土中に放置されたと説明されています。
扁平鈕式古段階までの銅鐸は、近畿地方の中でも摂津北部、大和、河内、山城といった畿内を中心に製作され、その分布地から主に近畿以西の西日本に広がっています。弥生時代中期の段階は、畿内の勢力がより西の地域との連合を意図して銅鐸祭祀を普及させたと考えられます。これが扁平鈕式新段階には、各地に地域的な銅鐸群が生み出されるようになり、銅鐸祭祀は地域ごとに展開したかにみえます。
そして突線鈕式銅鐸の段階になると銅鐸は「近畿式銅鐸」と「三遠式銅鐸」という二つの大形銅鐸にまとまり、分布は畿内周辺部と東海地方へ移っていきます。弥生時代後期、畿内勢力は新しく大きな近畿式銅鐸によって、周辺地域と東海地方への連携施策を講じたものと推定されます。

9.近畿式銅鐸と三遠式銅鐸

弥生時代後期になるとそれまで畿内を中心に生産されていたいくつかの銅鐸製作集団が統合されて、より大きく装飾的な銅鐸が生み出されます。「近畿式銅鐸」と「三遠式(さんえんしき)銅鐸」の登場です。近畿式銅鐸は、鈕の頂に双頭渦紋(そうとうかもん)をつけ、身の区画帯を斜格子紋で飾ることなどを特徴とし、近畿地方を中心に畿内の周辺部と紀伊西部、近江、伊勢、尾張、三河、遠江などに分布します。三遠式銅鐸は、鈕の頂に飾耳がなく、身の横帯には綾杉紋を採用することなどを特徴とし、近畿式銅鐸にやや遅れて成立し、三河、遠江を中心に限られた範囲に分布します。これらの銅鐸が複数出土したものをみると野洲市大岩山銅鐸を除いて、近畿式は近畿式で、三遠式は三遠式で出土しています。同じ銅鐸を用いながらも、近畿地方と東海地方ではやや異なった銅鐸を使用しており、それらを近畿、東海勢力の政治的しくみと対立などと解釈する考えもあります。しかし三遠式銅鐸に絵画銅鐸が残り、内面突帯に摩滅痕跡が認められることなどから、三遠式銅鐸は古い銅鐸祭祀を継承するものだと考えられ、近畿式銅鐸は畿内が先導する新たな宗教的・政治的な祭器だと考えられます。弥生時代中期まで、銅鐸を鋳造していた畿内からは、弥生時代後期の大形銅鐸の出土例が極めて少なく、畿内中枢では銅鐸祭祀から、いち早く銅鏡など用いた新たな祭祀へと移行したようです。その一方で、畿内は近畿式銅鐸を用いて、東海地方など周辺地域との政治的連携を模索したようで、三遠式銅鐸が使用していた東海地方では遅れて近畿式銅鐸が入り込んできます。

10.銅鐸祭祀の終焉

扁平鈕式までの銅鐸は主に畿内で製作され、近畿以西の地域に広がりましたが、弥生時代後期になると大和や摂津のほか、近江、尾張などの拠点集落からも土の鋳型が出土していることから、より広い範囲で銅鐸や青銅器生産が行われるようになります。銅鐸を鋳造する技術は、銅鐸にとどまらず剣や戈、鏃など幅広い武器や装飾品をつくることも可能です。このように畿内が管理掌握していた鋳造技術と製作技術者を周辺地域に放出した背景には、周辺地域との連合を早急に築かなければならない社会状況にあったこと、更に畿内が原料を掌握していたことなどが考えられます。また、近畿式銅鐸に限って破片で見つかるものがあります。また、野洲市大岩山1962年4号鐸は故意に双頭渦紋が裁断されています。近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊されて破棄されたものや、飾耳を裁断して銅鐸を否定するような行為が行われています。銅鐸が前世の共同体を象徴する祭器であり、新たに台頭した権力者にとっては、邪魔な異物となったのです。

野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)
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