野洲市歴史民俗博物館蔵
吉村孝敬(よしむらこうけい)筆、寛政11年(1799)
屏風・六曲一双、紙本淡彩(金砂子は幕末・明治頃の後補)
縦118.4センチメートル・横245.6センチメートル(本紙・屏風一隻の大きさ)
墨書「寛政己未仲秋写孝敬」、落款(印文)「孝敬之印」「無違」
右隻(粟津晴嵐、瀬田夕照、矢橋帰帆、石山秋月)
左隻(三井晩鐘、唐崎夜雨、堅田落雁、比良暮雪)
近江八景図のなかでも、実景に即した写生画としては最初期のものと考えられる。本作品以前の近江名所図や近江八景図は、近江八景和歌の歌意に即した名所絵で、優美な構図のために実際の地理関係に即さずに描くことが多い。対して本作品は、実景に即した近江八景の景観を描写した絵画作品として、絵画史的価値が高い。
本作品が制作された寛政年間は、利便性の高い実地的な挿絵が豊富に掲載された「名所図会」(「伊勢参宮名所図会」「東海道名所図会」「近江名所図会」など)が盛んに版行された時期とも重なる。これまで、円山応震「琵琶湖図」[滋賀県立琵琶湖文化館蔵、文政7年(1824)]が知られていたが、本作品より四半世紀あとの作品である。ちなみに、応震は応挙の孫にあたる。
吉村孝敬の父蘭洲は野洲の出身で、郷里の三上山を大きく描いた理由も、そこにあるかもしれない。描かれた景観、描いた作者、ともに地元にゆかりのある作品である。
35年あまり後、歌川広重の浮世絵版画作品において、 瀬田夕照、矢橋帰帆の 背景に三上山を大きく描く構図が、他の画家へも影響を及ぼし定着していくが、本作品は、その広重の構図の先駆をなすものである。他の近江八景図には見られない描写が興味深い。比叡山をその姿がわかるように大きく描き、瀬田唐橋東のたもとの橋本町の町並み、石場の常夜灯、膳所城の木立ちなど、当時の具体的な景観を伺わせ、古写真がわりの資料といえる。また、三井寺の山門の様式や、浮御堂の茅葺の屋根など、本当にそうであったのかどうか、検証すべき描写もある。
円山派の絵師で、吉村蘭洲の子。蘭洲は野洲の出身。円山応挙の晩年の弟子で、長澤蘆雪らとともに応門十哲の一人に数えられる。伝統的な狩野派の画法や応挙の写生画を消化し、さらに写生を推し進めた画風で、京都画壇に足跡を残した。花鳥画の作品が多い。西本願寺門主のお抱え絵師となった。
石山秋月、瀬田夕照、粟津晴嵐、矢橋帰帆、三井晩鐘、唐崎夜雨、堅田落雁、比良暮雪からなる近江八景は、中国の「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」になぞらえ、琵琶湖周辺の風景や名所を選んだもので、その試みは室町時代に行われるようになったといわれている。その後、安土桃山時代から江戸時代初期頃に、公家の近衛信尹(このえのぶただ)が詠んだ和歌が、近江八景として定着したと考えられている。江戸時代には詩歌や絵画の題材として用いられ、絵画や工芸品に描かれ、浮世絵の作品などにより広まり、今も親しまれている。
三上山・瀬田唐橋・膳所城
石場の常夜灯
三井寺・比叡山
落款・墨書